能登半島地震 読売新聞記者との話

投稿者: osadatakuya 投稿日:

能登半島の震災支援から一旦戻り、福島の自宅にて読売新聞の記者の方の取材がありました。飯舘村で防災イベントの時に知り合いになった記者の方です。

飯舘村の整骨院の話を聞きたかったらしいのですが、能登半島の震災支援をしているということで急遽能登半島の現状をお話しすることになりました。4時間にも及ぶ取材でしたが、熱心にお話を聞いてもらえました。

支援物資の届かない原因、我々ができる最良の支援方法とは何か、原発の末路、どんな支援をするべきか等、多岐にわたる内容で会談を行いました。

 1月1日の震災から約20日。3週間という時間で現地はどこまでのことがされていたのか。実態はひどいもので、東日本大震災の経験は全く活かされなかったという結論で差支えないだろう。あと何回震災を経験すればいいのか、どれだけの被害にあえば真剣に命を考えるのか、インタビューを受けていて改めて憤りを覚えた。  そろそろ次のフェーズに移行するわけだが、命から暮らしにフェーズが変化する。ここで大きな課題は原発である。どんな再建を試みようが放射線の前には人類は逃げ回るしかない。これがフェーズ2の最大の焦点であって、福島はこれを経験し、見るも無残な形で避難解除をしたわけだ。背景は責任と金。これが原発に敗れた国の償いかたである。情報を精査し、コントロールし、規制をかけないことで見えない、聞こえない放射線を世の中に散乱させ隠している。30年、100年と放置し、隠し通すのだ。被災した住民が騒がないように手厚く、穏便に粛々と対応する。コントロールできる人間でのみ原発の対処を行う運用と政策が施される。 対応はするが、山の除染は一切しない。もう元に戻すことが不可能なことは知っている。これを原発の被害者は皆知っているのだ。

金沢は本当にいい街だ。伝統と歴史とモダンな印象を持った由緒ある街。この街が原発で被災したらと考えると・・。それは許されない。原発事故の末路を体感している私にとって、この豊かな街に放射線が降り注いだらどれだけの人が肩を落とすのか。大きな失意の渦をどうやって解決できるのか。まさに、その危機に金沢はいる。農村であれば土を剝がせばいいが、街はそうはいかない。アスファルトで蓋をするだけでは避難解除などできはしないだろう。金沢に住む人たちも原発に対する危機感に煽られている。しかし、文句をいったところで現状が変わるわけではなく「どうするか」を問われるのである。災害の対策を怠ったことは周知のとおりだが、原発の知識や教訓は未だ多くの国民が一般的な知識を有しているとは言えないだろう。危機に陥ってからではなく、自分が住んでいる街のことを知っておくということも震災大国である日本は重要なことなのだ。

 私にできる最大の支援内容は、原発の教訓を伝える支援だ。何があって、何をなくして、何を得た。結果どうなったのか。これからどうなっていくのか。こういったことを議論し、対策や考えや営みを更新していく。そういう材料が福島にはあり、世界で唯一のwith放射線地域に住む福島のストロングポイントでもある。私なりに今回の震災の力になれるよう尽力していきたいと思う。

現地の人は本当に大変だと思いますが、頑張りましょう。被災した方も支援する人も大変です。総力戦になっていると思います。支援は物だけでなくもっといろんな形があると思いますから、この記事を読んで何かしてあげようという人がいれば幸いです


2件のコメント

鈴木和隆 · 2024年2月3日 3:38 PM

記事を読みました。
輪島の写真に、なにか、じ~~んとしました。

    osadatakuya · 2024年2月4日 9:48 PM

    そうですね。何とも言えないムードが被災地にはどうしても起こってしまいますね

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